• BIO • EN / JA
  • CONCERTS & PROJECTS
  • COLLABORATION
  • MEMORANDUM
  • GALLERY
  • VIMEO
  • L‘ARCADIA DI DIONISO

Suguru ito

​Suisse based pianist • fortepianist


​
​MEMORANDUM • CONTENTS ~ Fanny Mendelssohn-Hensel|タンポポあるいはポポンタ|Une occupation inutile|伊藤悠美 YUMI ITO Vocals (Vimeo)|みだれ箱|メトロノーム奇談の時代|パウ・カザルス国際音楽祭 (Vimeo)|夜話 Online Conversations|常不在|Character first, ability second |D or E, that is the Question|酒神礼讃|Mozart & Don Cacarella|J. S. Bach & Beer|Clavicembalo o Piano-Forte|The anniversary of Caroline Esterhazy‘s death|ピアノ奏法の断片|Deuxième ballade Op. 38, Sonate Op. 65 等にまつわる事情|Beethoven ad libitum|鼠小僧次郎吉と跡隠しの雪|覚書 2|覚書 1

みだれ箱

11/11/2020

 
Picture
Et le vent du nord les emporte / Dans la nuit froide de l'oubli / Tu vois, je n'ai pas oublié / La chanson que tu me chantais (poème: Jacques Prévert)|Photo ©︎ FAE

こんな句があったような、なかったような。

業平のふみ貼ってある火鉢哉

酔眼の女がふてくされて座っている。傍らの箱火鉢には、昔の男からの恋文の切れ端が無造作に貼りつけてある。

ー

自分にとっての忘れ得ぬ日本の名優。

原泉、田中絹代、南美江、森光子、ミヤコ蝶々、三崎千恵子、加藤治子、菅井きん、奈良岡朋子、岸田今日子、市原悦子、上月晃、坪内キミ子、浅丘ルリ子、長山藍子、倍賞千恵子、三田佳子、十朱幸代、樹木希林、太地喜和子、吉永小百合、宮本信子、大楠道代、大原麗子、左時枝、横山リエ、土田早苗、山口美也子、真野響子、浅茅陽子、桃井かおり、風吹ジュン、田中裕子、原田美枝子、小林聡美、富田靖子、清水美沙、永作博美、緒川たまき、麻生久美子、ともさかりえ、竹内結子、篠原ゆき子、池脇千鶴、蓮佛美沙子、中村翫右衛門、志村喬、浜村純、東野英治郎、吉田義夫、大犮柳太朗、加藤嘉、森繁久彌、宮口精二、松村達雄、宇野重吉、近衛十四郎、殿山泰司、三國連太郎、太宰久雄、三木のり平、大滝秀治、渥美清、藤山寛美、高倉健、小池朝雄、勝新太郎、田中邦衛、仲代達矢、品川隆二、マルセ太郎、山谷初男、佐藤允、山﨑努、室田日出男、左とん平、津川雅彦、川谷拓三、橋爪功、小松政夫、田村正和、福本清三、蟹江敬三、柄本明、北見敏之、大地康雄、竹中直人

ー

病魔にも屈せず、68歳で逝くまでひたすら演ずることに命をかけた渥美清さんに日本人の心の神髄を見る思いがする。彼がめずらしく収録を許可したという『寅さん』(遺作となった1996年の第48作) を追うドキュメンタリー番組があった。それを見て知ったのだが、彼がよく仲間うちで語る芸談に「芸人の末路」というテーマがあって、要約すると、真の芸人は落ちぶれて野垂れ死にするのが正しいという教えである。田舎の畦道に男が行き倒れになっている。よくよく見ると「ああ、むかし売れっ子だった役者だ!」とか、だれそれは一世を風靡した人気者だったが最期は場末のキャバレーのボーイとして死んでいった..とか。自らも浅草のストリップ劇場でコメディアンとしてスタートした渥美清さんには、愚直に生きて朽ちゆく芸人たちへの深い共鳴があった。だから彼自身、肝臓ガン (のちに肺に転移) をまわりの誰にも打ち明けようとせず黙々と演じ続けた。最後の『寅さん』のロケーションでは出番を待ちながら、表情はこわばり、声もかすれ、それは傍目にも難儀そうだのだが、この名人のもつ気迫と、いつ朽ちようとも本望という心意気は観る者を惹きつけてやまない。

日本の銀幕史を支えた田中絹代さんが39歳のとき老け役のために自ら申し出て前歯を4本抜いてしまう話は強烈すぎる。さらに4年後の『楢山節考』(木下惠介監督、1958年) では、その抜いた歯のところに入れていた差し歯も外し、石臼をかじり歯を折る老女を演じた。57歳から亡くなるまでの10年間はテレビドラマにも出演。遺作となった『前略おふくろ様』(倉本聰 脚本) では、荻原健一さん演ずる主人公サブと洋食屋で対峙する母親役が圧巻だった。心ならずも母にボケがきていることを示唆する末っ子に対して放つ憤慨の台詞 (「明治の機械を馬鹿にすんな」) が胸に迫る。この頃すでに脳腫瘍に冒され、金に窮しながらも、唯一の暖房は炬燵だけだったという鎌倉の自宅に独り生きた稀代の名優。亡くなる2年前の1975年、ベルリン国際映画祭で最優秀主演女優賞を受賞した『サンダカン八番娼館 望郷』(熊井啓 監督、1974) をもう一度観なくては!「眼が見えなくても、寝たきりでも、演じられる役はあるだろうか」1977年、順天堂病院で語ったとされる田中絹代さんの言葉。
​
脇役の神様と謳われた殿山泰司さんは自ら「三文役者」を名乗り、声がかかればいかなる役にでも没入したことで知られるが、奇書『日本女地図』の著者でもある。
​
吉永小百合さんは酒豪だったらしく、酔っぱらいのシーンがことのほか美しいし、土田早苗さんの決してまばたきしない出色のアップは観ていてぞくぞくした。

座頭市シリーズで、台本のない演技で魅せた当時19歳の原田美枝子さんの魔力は忘れ難い。

天保時代の伝説の按摩を近年はいろんな人が演じるようだが、俺にはその意味がわからない。本家本元、勝新太郎さんの座頭市は、メシの食い方から酒の呑み方、相手を斬り捨てたあとの苦悶にいたるまで、そのすべてが「人間の業」を表象していて限りなく心を打つ。この類まれな演技者は、目には見えない余韻とか、漂う空気のゆくえ、そして魍魎や魑魅たちの息づく領域に紛れ込んで戯れていたにちがいない。

何番目かの座頭市の映画で、刀鍛冶の東野英治郎さんと屋台で呑み交わすシーンがあって、勝新太郎さんのうどんのすすり方が白眉。まあ少しは噛みほぐしたほうが消化器にはいいのだろうが、物にはことごとく「間」というものがあって、月並みな常識にとらわれると、すぐさま間伸びして野暮が顔を出すから、美から遠ざかることはなはだしい。

上記の原田美枝子さんが2013年1月号の『文藝春秋』で勝新太郎翁の教訓を回想している。
「引き算の芝居をしろ」
「冷蔵庫に入れておいた芝居をするな」

名優の語りや声色はそれぞれにすばらしいが、なかでも大犮柳太朗さんの喋りは、特に晩年、いわば巧みさの裏返しで、独特の滑舌はどこかあやしげになって、それがまた鬼気迫る情感を醸し出したのだった。大滝秀治さんや加藤嘉さんの完璧比類なき「匠」に感動する自分もいれば、大犮柳太朗さんの不器用に心動かされる自分がいる。

大滝秀治さんといえば、少し高めの不思議な声で、その体の奥から出てくる台詞は演じるという次元をはるかに超越した。この人も寒空の下で呑む屋台がよく似合った。

忘れてはならない。生粋の凄みある悪役といえば、いかに世界広しといえど室田日出男さんの右に出る者はいない。行年64歳。戒名がなかったあたり、さすがこの人の生き様のとおりだ。

宝塚の大看板で鳴らした上月晃さんといい (この方の歌も惚れ惚れする)、飄逸の酒徒・太地喜和子さんといい、まさしく粋を絵に描いたように生き、足早に鬼籍の門をくぐってしまった。

ー

文化勲章も勲三等も辞退し、晩年の20余年は家に閉じこもったきり、30坪にも満たない庭の草木や虫たちと対話して生きた画家、熊谷守一 (1880~1977) を演じる山﨑勉さんと妻役の樹木希林さんが鮮烈に耀く『モリのいる場所』(2018年/監督 • 脚本: 沖田修一) 。随所にちりばめられた昆虫の映像も愛おしい。

下手は下手の絵を描けばそれでいい、とはこの不世出の画家のことば。

こちらの仙女さまの箴言も肝に銘じようと思う。
「おごらず、他人と比べず、面白がって平気に生きればいい」- 樹木希林 (1943~2018)

ー

市川準監督の『BU • SU』(1987年) という映画は、千差万別である人間の煩悩こそが生の証であることを教えてくれる。台本をなぞるように進行する優等生の人生なんて味もそっけもない。

古来より芸道の先人たちが浄瑠璃、歌舞伎の世話物というジャンルにおいて『八百屋お七』や『曽根崎心中』といった道ならぬ悲恋を題材に、薄幸の畢生に渦巻く葛藤と波瀾の産物である切羽詰まった美を見いだし、寄り添うように憐憫の情を注ぎ込んできたことはなんと貴いのだろう。

富田靖子さん扮する「こころを病んだ芸者見習いの高校生」、鈴女 (すずめ)。じっと出番を待つうちに瞳からこぼれ落ちる生一本な涙。そして晴れ舞台で気丈に踊る「櫓のお七の舞い」は心ならずもクライマックスを目前に破綻してしまうが、その瞬時にして成就するメタモルフォシスの奇跡!

そう、いのち続く限り、こころの形態は絶えず変容し、その琴線は調弦されてゆくものだ。それが生きるということ。

それにしても、内館牧子さんの脚本の鯔背なこと。

ー

映画『光る海』(1963年) で主演の吉永小百合さんが田中絹代さんに語りかける台詞。

「赤ん坊の泣き声と弔いの鐘の音が交わることなく明け暮れした日はひとつもない」

出典は古代ギリシャの哲人の金言。

ー

魂は生きている間は肉体という皮膚に覆われているが、死ぬことで脱皮する。いわば新たな生誕というにふさわしい。

生きることを究めると死ぬることに行き着き、死ぬることを究めると生きることに行き着く。人生は常にそのようになっている。

ー

「音」もまたこの世とあの世を行き交う使者だから、解き放たれる一音は遠く霊界の彼方へと飛んでゆく。

いまのコロナ時代「観客のいないコンサート」と銘打った催しを散見するようになったが、たとえだれも座っていないホールでも、心を澄ましてみれば、姿を見せない魂の訪問者がたくさんそこにおられることに気づくだろう。

音楽は、黄泉の国との交信手段であるのかもしれない。

ー

残念ながら、現世での演奏はどうも楽器に支配されることが往々にしてあるもので。

こんなことは改めて言うまでもないのだが、まがい物のピアノで商売する楽器商はいる。

とある夜会で弾いた新品のグランドピアノの打鍵は怪異と言うべきで、あんな違和感のあるピアノにお目にかかるのは何十年ぶりだろうか。まるで『鏡ケ池操松影』(かがみがいけみさおのまつかげ) の世界だ。

外見上は申し分ないこの日本の代表的ブランド・メーカーによるグランドピアノは、ヨーロッパへの輸出専用に製造されたインドネシア工場産のようだが、鍵盤が恐ろしく重いだけでなく、打鍵のあとの戻りが変則的にのろい。

ー

奏でている最中こそ、楽器の異状も己れの末技も含め忘我郷で音楽に陶酔しているものだが、もしそうした演奏の録音をあとから追跡するなら、自己嫌悪から身投げすることになるだろう。演奏の瞬時に自ら聴く音と、録音から聴取する自分の音、それは途方もなく違う。道理上は同じはずなのに、やっぱり違う。録音の良し悪しのことではない。自分の置かれた「共振点」の違いなのだ。

ー

形あるもの刻々と変容し、花の色はいたずらに移り、消える。
白玉の神酒に暮れゆく未完の今日もまた至極。
一瞬を愛で、さよならをいう。
明日の有無、依然不知。
一音一命。
​

Comments are closed.
    ➖

    ​
    ©︎ FAE 2023
Powered by Create your own unique website with customizable templates.
  • BIO • EN / JA
  • CONCERTS & PROJECTS
  • COLLABORATION
  • MEMORANDUM
  • GALLERY
  • VIMEO
  • L‘ARCADIA DI DIONISO