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Suguru ito

​Suisse based pianist • fortepianist


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夜話

8/6/2020

 
Online Conversations with Suguru Ito ©︎ Sei Morino|April 2020 [抜粋]
画像
Photo: The pianist‘s bed ©︎ FAE

ーーー コロナ・ロックダウンの春、以前からおききしたかったことをいくつか、順を追って質問させていただきます。まず最初に、英さんにとって演奏で一番大切なことは何ですか?

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Suguru Ito: 一言でいうなら、息、呼吸です。管楽器に限らず、どんな楽器でも、いのちの源である呼吸は重要な意味をもちます。われわれは「空気」を共有しながら生きていて、空気には境界線がないから、どっかしらで必ず分かち合うことになります。


ーーー 空気のシェア!


Suguru Ito: つい先日、イスラエルのホメオパシー医師で植物学者の Mihal Yakir 女史のインタビューを聴いていたら、彼女がやはり空気と空間のシェアという点に言及していて。ちょっと話は飛びますが、長期にわたってアフリカやオーストラリアで大規模な森林火災が続きましたね。そのあとすぐコロナウイルスの発生、そして地球規模の蔓延に至っているのですが、Yakir 女史の見解では、地球上にある動植物すべては地球の細胞の一部であり、無残にも地中が焼けただれてしまった結果、今まさに「地球の肺」は機能できずに苦悩している。女史はそうした因果性への認識に著しく欠ける人類への警鐘を鳴らしているわけですが、たとえば、われわれが薬草を摘むとします、そのとき摘み取って終わりじゃなく、薬草に向かって問いかけるべきなんですよ ..「わたしがあなたに何かしてあげられることはありますか」って。ところが人間という生き物はどうも他者から奪えるだけ奪っておいて終わりです。


ーーー 心に響くお話ですね。


Suguru Ito: すべての動植物が共有する空気、科学的には大気と呼ぶべきでしょうけど、こんなありがたい恩恵を受けていながら、演奏の際に呼吸することを怠りがちな種族がいます。その代表格がピアニストで ..


ーーー ということは、最初に歌うことから学んでゆく必要があると?


Suguru Ito: 歌えない人や、歌いたくない人に楽器を渡すくらい不可解なことはなく。音は出ますよ、そんなのいくらでも、鍵盤に物が落っこったって音は鳴るんですから。そこへいくと、歌とかはもう、それは尊いものであって。だって、人は歌い出すまえに必ず息をします。息とは「意志」の別称なんだと思います。


ーーー 生命は空気に依存し、誰しも呼吸はしているものの、ここで英さんがおっしゃるのは音楽的呼吸のことかと思われます。


Suguru Ito: はい。どういうわけか大抵のピアニストは、とりわけ大切である曲の弾き始めに息していないですね。たとえば、レッスンで生徒にその点を指摘して、もう一回弾き始めてもらうんですが、それでも息していない。また止めて確認すると、答えは案外「いやあ、いまはちゃんと息しました」(笑)。内緒で息をするんじゃなく、正々堂々としなきゃいけない。


ーーー それこそ、英さんのお話によく登場する大チェリスト Pau Casals の弾き始めの瞬間につながるわけですね。


Suguru Ito: わたしも実況録音でしかこの名人の演奏を体験してないんですが、Casals にとっては、曲の最初の一音であれ、フレーズの最初の一音であれ、それは常に歌い始め、語り始め、ということなんですね。その先はチェロに託すことになるわけですけど、最初には必ず「吐息」としての声の断片..というか残響が聞こえるわけです。歓喜の躍動もあれば、嗚咽のような「うぅぅ」って声もある。あれを聴くと、すでにその出だしの一音で、あるいは唸りだけで、すべてのそのあとにつづく物語が表象されているような説得力があります。演奏中のたゆまなき呼吸ほど強烈に奏者の主観的エネルギーを放つものはないでしょう。


ーーー ひとつひとつの曲には、それぞれ固有の内容がありますよね。さっきおっしゃった「正々堂々と息をする」というのは、その瞬間の自分の感情を包み隠さず表に出すと解釈してよろしいでしょうか?


Suguru Ito: もちろん感情も動機も。早い話、今から何か重要な告白をするような、たとえば、プロポーズとか。そういうことと同等であると考えるべきです、演奏という行為は。楽譜に印刷されてる音符を正確になぞる程度のことでは全然足りていない。


ーーー たしかに、人が思いつめたときの呼吸ほどピュアなものはありませんもの。


Suguru Ito: そこに一世一代の想いがこもればこそ、人は潔くなければいけないのであって、己れの筋道を通し得た音なりフレーズを、それらの音符を構成する真髄がもっともふさわしい間合いで「響きとしてあらわす」こと、それが音楽することだと信じます。もちろん、それ以前にまだ音になっていないような漠然とした情景や情感があって.. 作曲家が書いた作品であれば、奏者はそれが書かれたときの心理や境地、さらには時代の空気を探っているうちに、作曲者との間になんらかの同化作用が生じます。そうやって発酵したものをあまねく伝えることが演奏の使命です。音楽では言葉では定義不能な領域にも踏み込んで吐露しますから、そこではまず「生きた呼吸」なしには何も伝えられない。ここでいう伝えるってのは、人に伝えるだけじゃなく、自分自身に伝えることでもあるのです。


ーーー 発酵 (笑) .. みんな醸造につながるようです。ジャズピアニストの方々は演奏中によく唸りますし、英さんの演奏からもいつも声が聞こえてきます。


Suguru Ito: ピアノで弾いてる音という音は全部、無意識のうちに歌っていますから、それ自体なにも特筆することではなく。わたしには別に人が唸ろうと歌おうと、どうでもいいのであって。音楽は耳が聞こえなくても伝わるものだというのが座右ですから。耳を閉じ、そこで何が感じられるか、何がそこに出現するのか、ということです。普通は耳を閉じたら、唸りも聞こえなければ音も聞こえなくなる、それでもなおそこで心に伝わるものがないといけない。それは唯一、己れの存在の烙印である「気」とか「念」だと思います。


ーーー それで英さんが ピアニストでありながら1970年代から演奏されてきた鍵盤ハーモニカが吹奏楽器であるという点にも深い意味があるのでしょうね。


Suguru Ito: 鍵盤ハーモニカはいわば自分にとっての、音楽することの原体験でした。この鍵盤付きフリーリード楽器くらいダイレクトに感情をあらわすことのできる宝物はまれです。


ーーー Pianonymous さんという奏者と英さんが鍵盤ハーモニカ・デュオを演奏する情熱的な動画を拝見したことがあります。


Suguru Ito: Pianonymous のステージネームで知られる南川朱生さんは、これまでになかった鍵盤ハーモニカの「異次元」を歩んでいます。わたしは何回か朱生ちゃんの偉才を目の当たりにして、自分の鍵盤ハーモニカでの活動は見世仕舞いしちゃいました。


ーーー これまでに影響を受けた音楽家はいましたか?


Suguru Ito: 歴史上の作曲家をはじめ、さまざまな方の教えを拝受していますが、声楽家の Kurt Widmer 師から受けた影響は一番大きいかもしれません。まさに音楽は響いている音以上のものであるということを身をもって示してくださいました。師は官能的なバス・バリトンの持ち主で、オラトリオやリートの分野で輝かしい業績を残していますし、György Kurtág、Iannis Xenakis 等の現代作曲家の新作も100曲以上初演しています。晩年は健康上の理由から正常な発声が困難になって.. それでも2018年6月ウィーンでのリート・リサイタルでは、ほぼ出ない声で Schumann の『リーダークライス』などを歌い、人々に深い感銘を与えました。私はこの話を伝えて聞いたとき、ちっとも不思議ではなかったのです。真の歌というのは声で伝えるものではないからです。これこそ Widmer 先生が終生追い求めた真理の道だったのだと思います。


ーーー そこにいるだけですべてを伝えてしまうという神域!


Suguru Ito: それが芸の力ですね。できる人が黙ってそこにいるって凄いことです。


ーーー この辺で、楽器についてのお話を伺いたいと思うのですが。特にピアノの場合、自分の家にどんな名器があっても、コンサートへ持ち運べるものじゃないですよね。あとは、ピアノの種類、メーカーに関するご意見など ..


​Suguru Ito: 楽器については特に言うべきことはないのですが、まあ標準的機能を満たす楽器であれば、どれもみんな同じです。そうは言っても、自宅では30年前に手に入れた1915年製の Érard を愛奏しています。やはり Steinway & Sons などとはまったく異なる性格の楽器です。私は倍音が豊かな古い時代のピアノに憧れます。しかし現在、一般的なコンサートホールに Érard や Pleyel が置いてあることはありえず.. もっとも現代の巨大ホールにフランスの繊細な楽器は合いません。ほかに Blüthner と Mason & Hamlin は大好きなピアノです。Steinway のなかでも昔のニューヨーク時代の楽器が秀逸で、そういう輝かしい過去のピアノと比べてしまうと、新しい Steinway はその蝕感も響きもあまりに浅く感じられてしまうのです。どんどん勝手なことを話してますけど、ああだこうだ言い出すとキリがないのであって、結局、楽器は今ちょうど演奏する会場にあるものが最上である、というように考えないと。


ーーー ということは、自分を楽器に合わせるということに?


Suguru Ito: それしかありえないですね。それでコンサートの前に、会場のピアノの試し弾きっていうのは、私は避けたいのです。自分の場合、会場のピアノに全く触らずに開演ということは、ここ20年くらいはよくあります。ただ、調律師さんがおられれば、さらっとは弾きます。調律や調整の仕上がりを確認してもらいたいでしょうから。あとやはり共演者がいる室内楽とかは、会場でリハーサルしますからね、前もってピアノに触っちゃうことになってしまって、それが口惜しい。


ーーー 今まで一度も弾いたことのないピアノをいきなり本番で弾くことの利点があってのことと思われますが。


Suguru Ito: いや、単にズボラなだけです (笑)。仮に不調な楽器であっても、弾いてるうちに息を吹き返すことがあって。つくづく楽器も人間も似ていると感じます。


ーーー よく東ヨーロッパには危ない楽器があると聞きますが。


Suguru Ito: 若干あります (笑)。ロシアの現代音楽週間に出演したときのピアノはかなり傷んでいて、最低音の Aが鳴らなかったり。ポーランド北部・マズーリ地方の古城で弾いたグランドピアノも忘れがたく。会場入りするとちょうど調律の最中で、でも聞いてると音程はますます狂っていって (笑)。あとで伺ったら、その調律師さん、本職は自動車整備工なんですが仕事のないときはピアノの調律もやってしのいでいる (笑)。そうかと思うと、意外なところで名器に出会うこともあります。2004年春、ロシアのヴォルガ川の都市ニジニ・ノヴゴロド (旧ゴーリキー) から30キロほど離れたジェルジンスクでピアノ協奏曲を演奏したとき、年代物の Steinway があまりにすばらしい楽器でびっくりしました。ホールの支配人さんにきいたら、なんでも伝説のピアニスト Emil Gilels お気に入りのピアノだったそうで、それを聞いてわたしは興奮のあまり鍵盤をぺろぺろ舐め回してました (笑)。


ーーー 相変わらず (笑)、さすがです。Gilels はソ連から厳重な監視付きでアメリカやヨーロッパを客演した大ピアニストでしたね。


Suguru Ito: ずっと二部屋だけの小さなアパートに住み、アップライトピアノしか持っていなかったってのも凄い話です。


ーーー ところで、録音や CD についてはどのような見解をお持ちですか?


Suguru Ito: 近年、録音された音楽はほとんど聴かなくなってしまいましたけど。ライヴ録音とか、たまにラジオで聴く実況放送はドキュメントとしての貴重な意味があり、音楽に不可欠な臨場感が息づいています。でも本当はやっぱり録音ではなく、響いた一瞬にして消えゆく演奏を同じ空間で体験することが音楽の正道です。たとえ音は消えたとしても、その音や楽節がもたらす「何か」があって、それはずっと心の中で生き続けることができます。Rudolf Steiner の神秘思想に相通ずるかもしれません。心の奥底にしまい込まれた「何か」は長い時を経て、美として熟成することがあるのです。


ーーー そういえば、英さん御自身 CD録音をされないですものね 。


Suguru Ito: わたしには自分の演奏を残す意義が見出せないですし、そもそも音源として残らないことが音楽本来の姿ですから。演奏とは、出来不出来すべてを含めて「なまもの」であることが貴いのであって、同じものを何回も繰り返して聴けてしまうことは音楽の側から見ると、必ずしも幸せだとは言いがたい。それにさっきも言いましたけど、演奏の神髄である「念」や「気」のほかにも、その場の温度、熱、気流、振動、となりに座っている麗人の薫り(!)といった肝腎要なものをマイクロフォンは録音してくれません。


ーーー 古い時代のモノラル録音は一発勝負みたいだったと読んだことがあります。ある意味、ライヴ感は強いのでは?


Suguru Ito: そのとおりです。Francis Planté とか Alfred Cortot、Yves Nat などの昔の名人たちのスタジオ・レコーディングなんて、ときには自宅の居間で一回通して弾いて終わりだったわけですから。まるでお話しているような趣きです。晩年の Brahms が『ハンガリー舞曲』のサワリを自演している録音が現存していて、それはもうノイズのほうがうるさくて、ピアノは幽けき音でかろうじて聞こえるという代物ですが、それでも Brahms の筆跡に接するようで感動します。


ーーー 現代の私たちはあらゆる完璧主義と引き換えに、ユニフォーム化の道を辿ってしまったと感じますが ..


Suguru Ito: それはよく指摘されることですね。録音のみならず、コンサートの演奏までも活字化しているような印象は否めず、どこもかしこも書かれている音符を完全無比に弾かなければだめみたいな風潮が支配してますから。故立川談志師匠は「俺は上手にやり尽くしたから、あとはいかに下手にやるかだ」とおっしゃいましたが、この言葉はいろいろな意味で本質を突いています。たとえば、空前の超絶技巧で知られた Horowitz の演奏は精密機械のような冷徹さとは対極をなすものでした。ときどき耳慣れない音が聞こえてきたり、低音の怪しい竪琴の震えるようなトレモロはところどころで抜け、暗い底なしの森を行くような不気味な気配にぞっとしたかと思うと、鬼気迫る雷鳴のような閃光の連打が耳をつんざきます。夢想の境地ではその甘美な酔い心地は到底この世のものとは思われず.. とにかくそれは書かれた楽譜を規則正しく忠実に再現したものとはかけ離れています。それにまた Horowitz のテクニックも独特のものでした。


ーーー いまテクニックという言葉が出ましたが、ピアノ奏法において主流と呼ばれるようなテクニックはあるのでしょうか?


Suguru Ito: 各自が物理的、力学的な見地から身体にとってもっとも理に適った奏法を追求すべきだと思います。奏法は一生を通じて微妙に変わりゆくものですし。ただ決して自然の法則に逆らわないことです。


ーーー よく手のフォームに関する疑問を抱くのですが。


Suguru Ito: 大体、腕と手については、歩行中の状態が一番信頼できるバロメーターです。


ーーー 完全な脱力ですね。よく言われる「構え」はないということですか?


Suguru Ito: ピアノは鍵盤の部分でしか腕の重みを支えてくれませんから、単に脱力するだけでは手首から下へぶら下がってしまいます。それでは、指は動けないので、腕全体を程よく保つ必要があります。でも、この保つっていうのは特殊なことではなく、われわれが日常よく行なっていることです。たとえば、水道の蛇口をひねるときとか、仔猫にこちょこちょするとき、ひと昔まえならお習字で筆を持つときとか、そろばんとか ..


ーーー お箸を持つときも、それに近い感覚のような気がしますが ..


Suguru Ito: 鋭い、まさにそれです。お箸を持ってるときの手首とか腕を観察すれば一目瞭然、人は自力で腕と肘を一定の高さなり角度に保っていながら、何もそこに特別な力が入っているわけではないことが分かります。これがピアノを弾く際の極上の状態です。手首は自在に回りますから、この柔軟性が抹殺されないよう、とりわけ初心者には注意が必要です。あたかも上にコインを乗っけているような不自然な手首をよく見かけますが、足首を動かないよう固定されて歩行する人を連想させ、憤慨します。足首が動かせないと膝も硬直してしまい、こんな不自由はないですね。手首の動きについて Chopin は「歌手の呼吸のようである」と書いています。まさしく、ピアノ奏法で手首の果たす役割は大きく、わたしはいつも手首は弦楽器奏者の弓であると考えています。ご質問にあった手の構えに関しては、それはおそらく、あってないようなものです。


ーーー そのまま一冊の本になりそうですね。


Suguru Ito: 奏法論は音楽に寄り添うことはあっても、ひとり歩きするべきものではないでしょう。初心者が先生のところへお稽古に行って、芸の法則である模倣から入り、数年間みっちり土台を作り上げてゆく過程は大切です。ピアノの場合、その時期に猛稽古に明け暮れることも欠かせません。ここから先は、ある程度の上級者を想定しての話になりますけど、本になってる有名な奏法論や演奏論の類いはいくら読んでも身につかないもので、マスタークラスなどに出向いて教えを受けることも同様、残念ながら身につかない確率のほうが高い。頭で分かっても、体が自在にそれを行なえるわけではないので、音楽の解釈でも、テクニカルな事項でも、人から譲り受けたようなものは剥げ落ちる宿命にあります。結局のところ、どんな長い時間を要してでも、それが何十年であろうと、自分自身で考え抜き、感知し、鍛錬しながら身につけたものしか自分に属することは叶わないのです。


ーーー 音楽は Platon の時代から幾何学、天文学、哲学と同列に並び称せられてきた歴史があります。ところがヨーロッパでも音楽を重要視しない教育改革が散見されるようになりましたね。音楽教育についての英さんの思いをお聞かせくださいますか?


Suguru Ito: あれは Pythagorasでしたか、宇宙では天球からして音楽であると唱えましたね。全人が子供の時代から音楽に触れる機会に恵まれるとしたら、どんなにかすばらしいことだろうと思います。なにも特殊な英才教育とかは要らないのです。それは合唱だったり、楽器のお稽古であったり、いろいろな手段があると思いますが、生活の中に音楽がある家庭に勝るものはなく。何人であろうと人生の幼児期に音楽の祝福を受けることができたなら、決して戦争などするはずがなく、このコンテクストからも、とりわけ政治や行政を志す方々には、音楽を必修科目に加えていただきたく思います。その際、理論としての音楽ではなく、自分で歌ったり奏でたりすることで生きた音の波動に接するべきです。もちろん人と競うような音楽の悪用には反対です。そしてできれば音楽は一生の伴侶であることが望ましい。Shapespeare にもこんな粋な台詞がありましたね。If music be the food of love, play on! („Twelfth Night“)


ーーー どうもありがとうございます。
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